先日行った金沢旅行。
そこで「悪縁切れた!」て騒いでた白山比咩神社のご利益がまたもや現れたのです。
それはちょっと怖いというか厳しいものでした。
一見不幸と見紛うがごときの禊ぎの連発
旅行から帰ってきて半月くらいたって仕事からの帰宅途中に転んで足を痛めました。
痛めたといってもただアザができるとかではなくて腫れて黒く変色したため病院に行った結果お医者さまから「腫れがひどいからヒビ入ってるかと思ったけど、入ってなかったね。」という程度にはひどかった。
結果は「打撲」。
本当に一週間は歩くのが辛くて大変でした。
今も若干痛いんです。
その後に起きたのは母の骨折。
夜中にトイレに行く途中に転んで肋骨を骨折しました。
当然ですが、色んな意味で大変…
ここまでは家族も含めて身体に実害があった内容。
次に、仕事で良好な関係を築いてると思ってた人との衝突。
内容は詳しくは書きませんが、衝撃でしたね。
心理的なダメージが大きくて少し落ち込みました。
これが旅行から帰ってきて1ヶ月の間に起きたことです。
もう、何も起こらないでほしいと思ってしまうほどの怒涛の半月でした。
厳しい神様
姉の友達が神社仏閣に詳しくて、白山比咩神社に私が行った話をしたそうなんです。
そうしたら彼女が言った言葉が
「なんでわざわざそこに行くかな。禊ぎくるよ。」
でした。
私が母の骨折の件で姉に電話をした時に言いづらそうにそう言われました。
よく言う禊ぎは身をキレイにするということで手を洗うだとかがイメージとしてあると思うのですが、同じような感じ。
人生は波と節とはよく言ったもので、いいことの後には悪いことがある。
その逆も然り。
この場合、先に悪いことが起きて、これからいいことが起きる、という意味合いの禊ぎのようです。
と言いますか、ほんと怖いよ!!
自分を見直すいい機会
今回思ったのは、私、日々の生活に慣れてしまって感謝がなかったな、てことです。
例えば怪我。
これは自分自身で言えば毎日元気に仕事に行けるのはありがたいこと。
母に関して言えば、私の身代わりじゃない?とは言われました。
どういう意味かというと、家族で考えれば私が働けなくなると困るから母が身代わりで怪我をした、と。
これについては色んな考えがあるからそんなに真剣に考えるのはやめました。
でも、私が安静が必要な怪我ではなかったから私たちの生活は守られているとも考えられるんですよね。
当たり前のこと、て当たり前なわけではないんですよね。
でも、そういうの忘れてたなと。
神社に行く時はお願いもだけど、まずは日々何事もなく過ごさせていただいていることに改めて感謝をさせてもらう機会なんだな、て。
仕事関係の方との衝突で言えば、正直、私ができることってあれ以上なかったな、て。
ケンカ腰の相手を見て萎縮してしまったけど、世の中色んな人がいることを改めて思いました。
それに、好意的に話していたから私も相手に対して甘えというか期待をしていたのかもしれない、と。
全然慣れなれしい相手ではないけど、どういう時もフラットな気持ちでいれば心が揺れることもなかったのかもと思いました。
あとは、ケンカ腰の相手に対して「私があの時こうすれば」とか思ったけど、これ違うな、て。
間違いを指摘された時に認められないで逆ギレするのは相手の問題で私の問題でない。
誰かの問題を自分の問題であると混同するのはよくないということ。
人間関係がストレスになるのはこれだよな、とまたまたハッとしましたね。
まだまだ続くのか?
これはまだ続くのかわからないけど、今元気で生活できていることに感謝を、と考えればそんなに不安になることないのかも、て思い始めてます。
目的が幸せになるためだから、ということでしょうか?
でも、白山比咩神社への参拝を考えていらっしゃる方には覚悟をしてから行ってきてほしいですね。(本気で)